teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]


新着順:68/295 記事一覧表示 | 《前のページ | 次のページ》

『マリエットとの再会』

 投稿者:メープル  投稿日:2005年 8月16日(火)20時51分16秒
  通報
  ロンドンに木枯しが吹き始めた日の夜、クリスフォード家のセーラの自室では、上品な外出着に身を包んだセーラ・クルーが、同じく外出着に身を包んだベッキーの襟元を直していた。
「今日私たちが行くホテルサヴォイはね、私がインドから初めてロンドンに来た時お父様と泊まったホテルなのよ。」
セーラは父ラルフと滞在した数日間を思い出していた。テムズ川沿いの超高級ホテルサヴォイでは今、当時と同じヨハン・シュトラウス2世が指揮する音楽会が毎晩開かれており、上流階級の間で再び大きな話題を呼んでいた。セーラ達も今夜鑑賞に出掛ける予定で、準備をしていたところである。
「お嬢様、私までご一緒させて頂けるなんて、嬉しいですわぁ!私もう今から胸が一杯で!」
「まあ、ベッキーったら。でも本当を言うと、私も楽しみで仕方がないのよ。」
「お嬢様も今日が初めてでございますか?」
「ええ。あの時は私、お父様と少しでも長くお話していたくて、せっかくの音楽会をお断りしてしまったの。だから私も今夜が初めてよ。」
セーラはほんの少し困ったような表情を見せて微笑みながらそう言うと、揺り椅子に腰掛けさせていたエミリー人形を抱き上げた。
「エミリー、少しの間お留守番をお願いね。さあ、ベッキー行きましょう。」

二人が階下に降り行くと、すでに身支度を整えたクリスフォード氏がラムダスと共に玄関ホールで二人を待っていた。
「やあ二人とも、用意はいいね。」
やがて四人を乗せた馬車は軽快に夜のロンドンを駆け抜け、ビッグ・ベンを通過すると、コヴェントガーデンに程近いホテルサヴォイへとまっすぐに進んでいった。
今夜は音楽会の最終日であり、ロビーでは煌びやかな衣装に身を包んだ上流階級の紳士淑女が至るところで談笑している。セーラも気品に満ちた笑顔で歩み、その愛らしさに周囲の視線が注がれるのだった。

ヨハン・シュトラウス2世は、その生涯の多くをウィンナワルツの作曲に捧げたことから「ワルツ王」と呼ばれ、当時ヨーロッパで熱狂的な支持を得ていたウイーンを代表する作曲家である。そしてその夜、ロンドン公演最後の音楽会は格別に素晴らしく、拍手喝采のうちに幕を閉じたのだった。今宵、美しいワルツの調べに酔いしれた人々は感動を分かち合うべく自然にロビーに集まり、皆帰途につくのをためらっているようである。セーラとベッキーもクリスフォード氏に続きロビーに出て来ていた。
「本当にとっても素晴らしい音楽会だったわね、ベッキー。」
「はい、お嬢様!」
セーラはたった今の感動を思い出して目を閉じ、再びその澄んだ瞳をゆっくりと開いていった。とその時、セーラの視界の中に見覚えのある女性の姿が映し出された。
(……!マリエット!)
それはかつて、ミンチン女子学院の特別寄宿生であったセーラの専属メイドとして、セーラに優しく接してくれた女性。父と遠く離れて暮らすセーラを気遣い、いつも温かく見守ってくれた女性。セーラが慕ったその女性は今、信じられないことに、彼女の視線のすぐ先にいた。セーラは思わず息を呑み、その碧色の瞳を大きく見開いた。そして次の瞬間、駆け寄って行ったのである。
「おっ、お嬢様?!」
セーラにはもう、人々の談笑する声もベッキーの声さえも聞こえていなかった。
「マリエット!マリエットではなくて?!」

ざわめきの中不意に名前を呼ばれ、怪訝な顔で声のする方を振り返るマリエット。その表情は幻でも見たかのように驚きに満ち溢れていた。
「お、お嬢様?セーラお嬢様…本当に?」
「ええ、そうよマリエット。私のことを覚えていて下さったのね。」
「もちろんですわ、お嬢様。忘れるはずございません。本当に…お懐かしゅうございますわ。でも、一体どうしてここに…?」
マリエットは不思議に思った。最後に見たセーラの姿は、ボロ服を身にまとい涙を流して許しを請う気の毒な少女だったはず。それが今は……。初めて会ったときよりも幾分大人びてはいるものの、美しいドレスに身を包んで微笑むその姿は確かに、自身の記憶にはっきりと残るプリンセス・セーラそのものであった。
「まあ、マリエットさん!お久し振りでございます!」
丁度そこへ、ベッキーがクリスフォード氏、ラムダスとともに近づいてきた。
「まあ、ベッキーまで。」
「はいっ!」
その様子を見て、クリスフォード氏は穏やかな口調でセーラに問いかけた。
「どうしたんだね、セーラ?」
「おじさま、この方が、以前お話した私に親切にして下さったマリエットなんです。たった今、ここで偶然に…!」
「ほう、ではミンチン女子学院でこの子のお世話をしてくれたのは君かな?」
「はい。マリエットと申します、はじめまして。」
「そうか、それは本当にありがとう。君の話はセーラからよく聞いているよ。私はこの子の亡くなった父親の親友でしてな、クリスフォードと申しまして…実はこの子は今私のところで暮らしているのですよ。ところで、君はどなたかのお迎えに来たのかな?」
「そうだわ、マリエット。あなたは今どうなさっているの?」
セーラは少し心配そうな表情になって恐る恐る訊ねた。
(マリエットは私のせいで学院にいられなくなってしまったのよ。私のせいで…。)
セーラはあの時を思い出し、再びその小さな胸を痛めて顔を曇らせている。その肩を、クリスフォード氏は優しく引き寄せた。
「お嬢様、どうかご心配なさらないで下さい。あれからしばらく田舎に帰って家を手伝っていましたが、メイド協会から紹介して頂いて、今はハンプトン・コートにある立派なお屋敷に勤めておりましてよ。今夜は、主がこの音楽会を鑑賞したいと、こうしてロンドンへ出掛けて参りまして、私もそのお供に…」
「そうだったの。私あなたのことが、ずっとずっと気になっていたのよ。」
セーラはそれを聞いてようやく安堵の表情を見せたのだった。

「待たせたね、マリエット。」
そこへ一人の紳士がゆっくりとした足取りで近付いてきた。クリスフォード氏は自ら前へ進み出ると紳士同士挨拶をかわし、セーラに代わって今に至るいきさつを説明した。紳士は神妙な面持ちで耳を傾けていたが、やがて懐から懐中時計を取り出して見ると、セーラに向かって一つの提案をしたのである。
「お嬢さん、あなたの気持ちはよくわかりました。しかし今夜はもう遅い。どうだろうか。私はあと三、四日このホテルに滞在することになっています。明日にでもまたここにおいで頂いて、マリエットの話し相手になっては頂けないだろうか?」
この素敵な提案にセーラが目を輝かせたことは言うまでもない。
「有難うございます、おじさま!」


その夜皆が寝静まった頃、セーラはベッドに腰掛けてエミリーに話しかけていた。
「ねえ、エミリー。今夜私をマリエットに会わせて下さったのは、きっとお父様に違いないって思うの。あなたもそう思わなくって?」
続いてセーラは、ベッドサイドに置いてある写真立てを手にとった。
(ありがとう、お父様…私をマリエットに会わせて下さって。)
セーラは心の中で父ラルフに話しかけた。

間もなく、ここロンドンにも再び厳しい寒さが訪れるだろう。しかし、セーラの心は温かかった。彼女の胸に咲く小さな花は、今日も美しく輝き続けている。きっと明日は、今日よりももっと素晴らしい一日になるに違いない。

おわり
 
 
》記事一覧表示

新着順:68/295 《前のページ | 次のページ》
/295